josi3.jpgjosi3.jpgjosi3.jpg高校将棋名勝負集

~高校将棋の歴史を紡いだ激闘棋士列伝~

野沢北VS飯山南(2001年女子団体)

MSG総統・著

josi7.jpgjosi7.jpgjosi7.jpg彼女たちの戦い・彼女たちの選択

 今でこそ野沢北の全盛期といえる女子部門であるが、その前は伊那北が何度も全国制覇を果した事で注目を浴びていた。特に藤枝明誠(静岡)との幾多の熱闘はライバル意識と共に両校の交友を深める事となり、伊那北高校へ招待しての交流試合が何と全国高校女子大会にまで発展するほどであった。今回の舞台は、その伊那北に野沢北が急激に追い上げる最中、突如台風の目となった長野最北都市の高校にスポットを挙げたいと思う。

 その高校は飯山南。余り将棋が盛んな学校とは思えなかったが、99年に女子部員が何名か入部する。正確な人数など私には分らないが4名前後と私は推測しているが、3年間持続した上に優勝争いを引っ張るまでにレベルアップしていく。名門校の伊那北や野沢北でさえ、人員を確保するのに四苦八苦している筈であり、またその殆どが初心者であるので一から教えて行かなければならない苦労を考えると、無名校(失礼!)にこれだけの女子部員が集まり、団体戦で優勝を争えるまでになった事に、ただただ驚嘆するしかないのである。まして飯山支部が、まだ設立されていなかったのだがら尚更恐れ入る。

 この飯山南に大躍進をもたらせたのは一体何か?それは女子部員達の頑張りと団結力の強さであったろうし、顧問の先生の熱心な指導ぶりでもあったろうし、新人戦団体の部で上位進出を果した事がある男子部員との稽古の賜物でもあったろうが、もう一つ加えるとすれば「戦法の選択」であったと私は考えている。

その戦法は一体何か。

 今までの題材にテーマを付けるとすれば上田VS伊那北が「壮大な(?)大河ドラマ」野沢北VS長野が「相手の実績に囚われず自分と仲間を信じる心」塩尻支部VSMSGが「決断・実行・自主性」とするならば今回の野沢北VS飯山南は「戦法の選択と統一の是非」という事でこれから書き綴りたいと思う。

josi3.jpgjosi3.jpgjosi3.jpg道しるべ

 飯山南が採用した戦法とは阪田流向飛車と棒銀のミックス戦法であった。どんな風に使い分けるのかを私なりに大まかに説明すると

①初手から▲7六歩~▲7八金~▲7七角と進める

②相手が△7七角成と角交換した時、▲同金と取り向飛車に構える

③そして棒金の要領で相手の飛車先の筋を逆襲する。つまりこれが阪田流向飛車戦法である

④相手が角交換をしない場合は自分から角交換。1手損してでも▲7七金~▲8八飛と構える

⑤相手が角道を止めた場合は棒銀に切り替えて阪田流向飛車戦法とは逆に相手の左辺を攻める

⑥いずれの戦法を使うにせよ、自陣の守りはそこそこにして敵陣に速攻を仕掛ける。

とまあ、こんな感じであろうか?

 この戦法の利点を私の独断と偏見で挙げさせてもらうならば、早い段階に攻撃態勢を整える事であろう。しかもメーンは、あくまで阪田流向飛車戦法という事で相手にとっては(野沢北や伊那北といった強豪校でさえも)未知の分野という事で早い内に自分のペースで戦う事が出来る。自陣が整備されない序盤から未知の戦法相手に守勢に回って自分のペースで戦う事など、しかも経験の乏しい女子高生選手には至難の業なのである。まして当時の長野県の高校女子将棋の戦いは攻防が少ないと言うか、形勢の如何に関らず、攻めたら攻め通し、守りに回れば守りっぱなしという戦いが多々見受けられただけに攻めている方が有利になりやすいのである。

 この戦法を取り入れ全部員が使う事になったのは飯山南顧問の方策だったと私は見ている。最近の統一戦法策と言えば昨年の女子団体準優勝校の上田染谷丘の四間飛車が記憶に新しいのだが、彼女達の場合は全国大会で活躍した奥村香さんの影響が大きい。ずば抜けて強い大先輩の、それも本格的かつ覚え易い戦法で勝ちまくる光景を見て(顧問の先生のアドバイスがあったとは思うが)後進部員達が自発的にマスターしようと心掛け、それがやがて「四間飛車の上田染谷丘」と呼びたくなるほどの高い採用率となったのであろう。

 しかし飯山南の場合、強くなって強豪と渡り合うには、何を差し置いても顧問の先生を信じる以外に術はなかった筈だ。そして顧問も将棋に対して相当の情熱を持っていたのであろう。実績豊富な名門校を倒す為に必死に有力な戦法を探したに違いない。前述の通り四間飛車などは覚えやすいのだが、人気がある戦法である分相手の方も経験豊富であると考えられる。つまり普通に知られている戦型で戦っても勝ち目はないとみて。未知なる、それも攻撃的な戦法を模索した結果が、飯山南独特の速攻系ミックス戦法を作り上げたのだと私は推察するのである。

juujika.jpg長野県棋界高校女子の事情

 長野県は、確かに女子将棋王国と言えるほど全国大会での活躍が際立っているが、それでもなかなか将棋部に入る人が少なく参加校も多くない。当然団体で全国大会出場を果した高校も少なく、私が知る限り平成に入ってから全国大会出場を果した高校は長期に渡って黄金時代を築いた伊那北の他には野沢北と大町のみである。それでも上田染谷丘や岡谷南のように熱心な顧問の尽力によって団体戦で戦える程に部員を集められた事には、ただただ敬服するのみなのである。

 実は我が母校である豊科の最高成績は全国ベスト8だったと思うが、これが実現したのは、何と女子個人戦である。因みにこの選手は、私の2年先輩にあたる。この選手と私、そして顧問の先生が同じ豊科町在住で、しかも顧問の家に行くには自転車で行けば大した距離でもないという事で、そこに3人揃って将棋の稽古を何度もやったものである。これこそが我が姉弟子の大躍進の大きな要因になったと私は思っている。最後は優勝した斉田晴子選手の前に敗れ去ったが、やはり全国ベスト8進出は大賞賛するべきであろう。それにしても女子高生と、ほぼマンツーマンで何度も稽古が出来るとは、私はなんて幸せ者であろうか(?)

 さて本題に入る。長い時間をかけて特殊戦法をマスターした飯山南は、2年次の新人戦の団体戦で念願だった優勝を勝ち取った。伊那北も精鋭を揃えてこの大会に臨んだようであるが、見慣れない戦型と攻め足の速さによって自分のペースを掴めなかったのが敗因と思われる。高校将棋の歴史に、しっかり名を刻した飯山南は、翌年の選手権での悲願の全国出場を目指す事になる。

 次項で私が飯山南をどうみていたのかについて、もう少し突っ込んでみたい。
toranp1.jpg1回戦・神様のいたずら

 今は無いと思うが当時は「長野県の高校将棋」という本が発行されていた。そこには顧問や選手の回想記的な作文と共に、竜王戦を除く全ての大会の準決勝以降の棋譜が掲載されていた。

 私が飯山南の選手達の棋譜を、そして変則戦法の集団採用を目にしたのは、この本からであった。正直言って驚いたし、もっと言えば呆気に取られながら我が目を疑った。得手不得手とか好き嫌いとかは二の次にしてまでも勝利に拘り、選手全員にマスターした事に飯山南の執念という物を棋譜を見て感じたのであった。

 ここで野沢北に話をずらす。新人戦から数ヵ月後に私は長沢夫妻についていく形で野沢北を訪れた。既に伊那北最大のライバルと目されただけあって女子部員の数も多かった。当然ながら女子部員とも何局か指したのだが、主力格となると、やはりシッカリとした将棋を指すなと感じた。未だ伊那北の後塵を拝し、新人戦では飯山南に優勝を攫われた野沢北であるが、今回の選手権は、この3校の争いになるのは明白であった。

 そして選手権。1回戦でいきなり野沢北と飯山南が激突したのであった。

数ある高校大会において選手権ほど緊張度の高く異様なムードに包まれる大会はないと思う。高校野球に例えれば夏の甲子園大会のような雰囲気である。しかも高校将棋選手権は夏の高校野球と違って最後の高校大会ではないにも関らずである。高校最後の棋戦は竜王戦であるが、選手権に比べれば淡白な雰囲気であり、特に中南信予選は3年生の参加が少なく、まるで新人戦のようである。

 何故選手権が独特の雰囲気となるのか?色々と理由はあるだろうが、最大の理由は団体戦で全国大会出場が狙える唯一の大会だからと思う。とりわけ長野県の場合、女子は団体で敗れたら個人に回る事が出来る(この点は、例えば静岡の出場規定とは正反対である)だが男子は個人と団体の両方に出る事は最初から認められていない。その分他の大会に比べて全国への門戸が広い。その分選手達も一段と張り切るのに加えて、団体対抗戦によって生じる責任感が高じて、かくの如き空気を生み出すのであろう。

 本気で優勝を目指す高校にとっては(特に3年生でメンバーを揃えたチームは)盤を挟んだ目の前の相手以上に、この難敵が厄介な存在になる。そのプレッシャーが重く圧し掛かるのが1回戦であるが、野沢北と飯山南は、ここで衝突したのであった。1回戦で当るには勿体無いカードだなと思っていた。

 新人戦団体の部では1年時に伊那北に屈したものの準優勝、その3で述べた通り2年時に優勝を勝ち取った飯山南。3年計画で作り上げた強力チームが最終目標である3年目の選手権団体戦に臨むに当っては相当のプレッシャーがあった事は容易に察しがつく。その結果は如何なものであったか?

歴史に残った彼女たちの足跡josi8.jpgjosi8.jpgjosi8.jpg

 野沢北と飯山南の対決は予測通りの熱戦になったようだが、結局2-1で野沢北に凱歌が上がる。そして、その野沢北と決勝で破った伊那北が男子と合せて団体アベック優勝を果たす。伊那北女子チームは全国大会にて準優勝という成績であった。

 飯山南初の全国優勝の夢は1回戦で潰えた。選手達は当然悔しかっただろう。そしてもっと指したいと思っただろうし、もっと力を出せた筈だとも感じた筈である。

 私は、この勝負を見ていなかったので敗因とかは断言できないが、大きい大会特有のプレッシャーもあっただろうし、それよりなにより戦法を研究され覚えられた事も大きな要因になったのではなかろうか?前項で述べた通り県高校文化連盟が発行された本に棋譜が何局も掲載されているし、新人戦では団体で2位と1位に入り、個人戦でも活躍が目立った分、飯山南の選手の棋譜が多数載っていた。

 それは例えば伊那北にも言える事であったが、飯山南の場合は全員同じ戦法を使う分、相手にとっては研究しやすかったと思う。さもなくば新人戦で2年間飯山南に苦汁を飲まされたチームが、最後の大事な大勝負で特殊戦法相手に好結果を残せる筈がないと私は思うのだが・・・

 戦法を統一させた以上、相手に研究され、それをまた更に上回る事が出来るのかという課題は、いつか必ず訪れる試練であるのだが、残念ながら飯山南は僅かに及ばなかった。かと言って全選手に3年間同じ戦法で統一した事が拙かったと断定するのは大きな間違いである。駒の動かし方から教え始めて(全員そうだったかどうかは定かではないが)全国出場を果せるまでに実力を引き上げるには、やはり多くの時間が必要になるので並大抵の能力では不可能である。まして伊那北のような全国でも有名な名門校が存在するのに対して支部道場通いもままならないというハンデがある状況では、例え奇策と言われようが何だろうが、他のチームとは異なった色を出さなければならないと思うのが心理である。

 そして飯山南は、それは実践し、全国出場こそ果せなかったものの、全国制覇に最も近いと目された強豪を破り長野県の高校将棋の1ページに長野県チャンピョンチームとして永遠にその名を刻した事で結果を出したのである。ここまでに選手達の能力を引き出した顧問の先生の情熱と戦略の高さ並びに選手達の技量とチームワークの固さは、いくら褒めても褒め過ぎるという事は無いのである。無名校から一気に優勝戦線の主役に踊り出た飯山南には心から拍手を送りたいと思う。

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以下は、MSG総統さまの「野沢北VS飯山南」が高校生掲示板に掲載直後の元野沢北高顧問の先生とMSG総統さまのやりとりを再録したものです。

hisya.gif 野沢北を名勝負集に取り上げていただきありがとうございます。詳しく正確な記述に、いつも感心して読ませてもらっています。

 野沢北対飯山南の女子団体戦1回戦は、忘れもしません。当時我々は、伊那北を倒すことに全力を注いでいました。伊那北は全国大会8年連続優勝という偉業を達成していました。大会前も伊那北対策で手一杯で、飯山南の対策まで手が回りませんでした。前の年の新人戦では飯山南には、どうにか勝てていたので、何とかなるかと思っていたのでした。

 対局開始しばらくして局面を見て、唖然としてしまいました。飯山南の作戦に見事にはまり挽回不可能の局面が3つ並んでいました。私はそのまま部屋を出て、飯山南対策を怠った事を、後悔しました。とてもその後対局の見る気にはなれませんでした。別室で行われている男子の対局を見て、頃合を見て戻ってみると、なんと2対1で野沢北が勝っていました。ですから私も何が起こったか分かりませんが、勝負は最後までわからないということでしょうか。

 伊那北との決勝戦では、1-1となり大将決戦となりました。伊那北の大将は当時県内無敵を誇る強豪でした。前年の全国大会新人戦で現在女流プロとして活躍している方をあと一歩まで追い込んだこともありました。対する野沢北の大将は実は一番弱い3年生でした。勝ち目のない伊那北大将に3番手の選手を当てる作戦でした。私が顧問の時には女子は全員居飛車しかやらせませんでした。しかし彼女だけは、なかなか上達しないので半ばあきらめ気味に振り飛車穴熊をやらせました。堅い囲いならもしかしたら、という考えでした。ところが決勝戦では、力を出し伊那北大将の左美濃右四間を相手に王手を掛けずに詰めろを掛けて勝ちという局面までつくり、結局は王手を掛けてしまい負けてしまったのでした。

 1回戦、決勝戦といろいろと考えさせられた大会でした。そして、その団体戦メンバーのもうひとりの3年生が2年前に病気で亡くなるという悲しい出来事もありました。

野沢北元顧問

 kaku.gifこちらこそ御愛読してもらい本当に感謝しております。最もVS飯山南戦の回顧を拝見すると私の記述も正確では無かったようで、やはり生で見る事の重要さを痛感致しました。

 確かに、当時の伊那北の強さは半端では無かったですね。この前年こそ大町に優勝を攫われましたが、以前として伊那北が中心だった事は変わりが無かったと思います。飯山南の速攻戦法も伊那北を倒す為に練り上げた戦法である事を我が塩尻支部の会員の一人に打ち明けたそうです。

 極端な話ですが、あれは本当に序盤からというより初手から自分の土俵で戦おうという感じの戦法だったと思います。太平洋戦争に例えれば、正に真珠湾攻撃。でも伊那北という強大な敵がいる以上、なかなか他校に神経を回せないものだと思います(飯山南にしてみれば、そこが付け目立った?目立たないのを逆利用するなんて昔の広島カープ常用の優勝パターンではないか!)

それでも逆境に折れる事無く強敵を降した野沢北の精神力は見事だったと思いますし、決勝の伊那北戦も大将が良く食い下がりましたね。ただ彼女の場合、ポジションが人を成長させるという言葉がピッタリだったとも感じています。私が思うに仲間の足を引っ張らないようにと自発的に特訓に打ち込んでいたのでは?そして1-1の状況と雰囲気が普段以上の能力を引き出したのではと推察しています。彼女の頑張りに敬意を表し、これからの人生の糧になることを信じております。

 メンバーの1人が亡くなったというのは今から2年前ですか?正直言ってショックです。何て言ったら良いのか言葉が浮かびません。人生これからだったのに何故・・・

 現在私が注目している野沢南って、かつて飯山南みたいに3年計画で団体優勝を目指しているように、私には感じています。もしそれが事実なら来年は勝負の年ですね。そして野沢北が、あの時の伊那北の立場だと思いますが、全国を何度も経験している選手が複数揃っていて強力です。しかし野沢南の実力も上がっていると思っているので、これからの急追が楽しみだと思います。

MSG総統