「150年前の将棋を再現」
6月11日の新聞の全国版に150年前フィラデルフィアで遣米使節団が将棋を始めて披露した記事が発見された、というニュースがありました。
ニューヨーク将棋クラブの先生方が、フィラデルフィアに訪れて当時の様子を再現したとのこと。
各報道メディアにご寄稿された文章をニューヨーク支部林会長のご好意で、今回長野県将棋情報サイトで公開させていただきます。
(文章・写真共にニューヨーク将棋クラブのご提供です)
150年前の将棋とチェスの出会いを再現
ニューヨーク支部 荻原茂孝
去る6月5日、ニューヨーク将棋クラブのメンバーがフィラデルフィアに出向いて、150年前に遣米使節団によってもたらされた日本の将棋と西洋のチェスとの初めての出会いを再現した。
きっかけは、フィラデルフィアの将棋ファンが見つけた当時の報道記事。1860年6月に遣米使節団が同市を訪れたとき、そのうちの8人が伝統あるフィラデルフィア・チェス・クラブに招待され、日本の将棋を披露したという。記事には、羽織袴に刀を携えた山田馬次郎と佐野鼎という二人が将棋を指して見せた様子や、盤や駒、将棋特有のルールやチェスとの比較、そしてその場の和気藹々とした雰囲気などが興味深く書かれている。これがおそらく、海外で指された記録に残る最初の将棋だろうと言われているが、アメリカ人記者が書いたこれらの記事では、将棋のことが
"Sho-ho-ye" と表記されているのも面白い。
この記録を見つけたアメリカ人将棋ファンが、この将棋とチェスとの記念すべき最初の出会いを再現しようと、その将棋が指された同じフィラデルフィアの Athenaeum(1845年建造の古文書図書館で当時のチェス・クラブの拠点)でイベントを催した。集まったのは、同市のチェス愛好家ら約30名と、ニューヨークから駆けつけた将棋クラブのメンバー7名。
150年前に将棋が指された「チェス・ルーム」という小部屋には、当時のテーブルや写真がそのまま残り、集まった人たちは当時の異文化交流の出会いに思いを馳せた。将棋クラブの日本人二人が、着物姿に持参した刀を供えて将棋盤の前にすわり、厳かに将棋を指して見せると、アメリカ人チェス・ファンから大きな歓声があがった。将棋クラブのメンバーはその後、将棋を指してみたいという多くのアメリカ人と指導対局を続けた。
「歴史的な遣米使節団の訪問のかげに将棋の話題があったと聞いて嬉しかったです。将棋は日本の大切な文化ですから、今回のイベントに参加できたことは大変意義のあることでした。」と、同将棋クラブの林稔会長は話していた。
遣米使節団150周年 1869年6月16日 ニューヨークに来ました
ニューヨーク支部 清水建
今年は徳川幕府が日米修好通商条約の批准のため、アメリカに使節団を派遣した、記念すべき150周年ということで、各地で行事が催されていますが、将棋の世界でも、ささやかながら、当時に思いを馳せる会がフィラデルフィアで開かれました。
1860年6月、ワシントンで批准を済ませた使節団は当地を訪れ、目付役で実質的なリーダーでもあった小栗忠順は、造幣局で両国間の為替の不平等さを理路整然と訴えたそうですが、山田馬次郎や佐野鼎という下級随行員8名は、地元のチェスクラブに招かれて、アメリカ人に将棋を披露しています。
これが海外で指された初めての将棋ではないかと注目したのが、現在ペンシルバニアの大学で哲学を教えているアランベイカーさんです。彼は一昨年の全米将棋大会の優勝者という強豪でもありますが、このことを記念して、チェスと将棋の愛好家を交えた親睦会を企画しました。彼に聞かされるまで、遣米使節団の将棋の話などちっとも知りませんでしたが、イベント好きな私達ニューヨーク将棋クラブの有志(または暇人)7人は、6月5日土曜日、この会に喜んで参加して来ました。
馬次郎達(そして私達も)が招待されたのは、市の中心部にあるThe
Athenaeum(日本語で発音表記するのが難しいですが、アセネウム、会員制私設図書館とでも訳しますか)、1814年に造られた立派な建物です。通りを隔てて目の前が、これもまた300年の歴史があるジョージワシントンスクエアという公園で(昔は違う名前で、今のような公園ではなかったそうですが)、園内には独立戦争を戦った無名戦士の墓地があり(比較的最近できたようですが)、訪れる人達が興味深そうに眺めていました。さすがフィラデルフィア、若い国アメリカにしては歴史を感じさせます。というか、感じさせようと頑張っています。
古書の匂いが立ちこめるアセネウムの二階には、チェスルームと呼ばれる小部屋があり、実際そこでチェスが指されていたのでしょうが、当時使われていたチェステーブルがそのまま残されていました。このテーブルで日本の侍達は将棋を披露したはずです!しかし余りに無造作に置かれているので、私達はその由緒あるテーブルで、罰が当たりそうな程低レベルのチェスを指して楽しみました。
朝11時頃、広間に皆が集まりました。全部で30名程でしょうか。
地元のチェス愛好家の方達の中には、元全米女子チャンピオンである、ジェニファーシャヘイドさんという、なかなかの美女もいました。将棋の世界では、そしておそらくチェスの世界でも、女性で、強くて、美しい、というのは滅多に揃うものではありません。これは問題発言でしょうか。
簡単な挨拶の後、まずアランが1860年にやって来たサムライ達の話を、当時の新聞記事とともに紹介し、加えて将棋のルールとその特徴を、慣れた調子で解説してくれました。馬次郎達は積極的ではなく、むしろ渋々といった感じで来たそうです。彼らの尻込みする様子が目に浮かびます。また、アランの英語は、英語で将棋のルールを説明するのはこうしてするものかと勉強になりました。真似はできませんが。
続いてニューヨーク将棋クラブから、クラブが誇るボードゲームおたく、アレックスが、将棋の歴史を、チェスやその他のゲームと比較しつつ、簡潔に、しかしぼそぼそと語りました。
その後、地元の人達と将棋を指したりおしゃべりをして過ごしました。中には将来有望な男の子もいました。短いながらも楽しい時間でした。皆さんありがとうございました。またどこかで会いましょう
帰りには、ここに来たからにはという意気込みで、皆でフィリーステーキサンドイッチを頬張りました。創業70年という老舗で、行列が店の外に溢れて角まで曲がっている大繁盛店でしたが、やっとの思いでありついたそれは、私達日本人にとっては、なんだこれという程度の物でした。そーりぃ。
それにしても150年前、日本はまだ江戸時代だったというのは驚きです。何の根拠も無く、ただ何となくですが、とっくに明治になっているはずという気がします。150年前は何時代だったかと日本の街角で尋ねれば、「えっ分かんない、昭和?」と答える、私に輪を掛けたお馬鹿さんがたくさんいるに違いありません。
フィラデルフィアを後にした使節団は、ニューヨークに向かい、そこでも熱狂的な歓待を受け、ナイアガラ号に乗って喜望峰を超え、日本人として初めて地球を一周して帰国します。しかし日本では彼らの留守中、桜田門外の変が起こり、攘夷の気運が沸き上がっていました。帰国した彼らは歓迎も賞賛もされず、西洋文明に直に接したという貴重な経験を、ほとんど世に生かすことが出来ませんでした。唯一人、小栗忠順を除いては。
小栗は帰国後、外国奉行、勘定奉行などを歴任し、横須賀製鉄所(後に造船所)を建設し、日本初の株式会社、兵庫商社を設立、兵制改革にも着手し、また郡県制度を提唱するなど、多方面で日本の近代化を推し進めています。後の明治政府による近代化など、小栗の模倣に過ぎぬという人もあったくらいです。しかし、戊辰戦争のどさくさ紛れに、帰農していた現在の群馬県高崎市で官軍に捉えられ、ろくな取り調べも無いまま、翌日斬首されてしまいました。享年わずかに42歳。
たった150年前、私達の御先祖は、みんな着物で、身分の差が公然とあって、町には電気も水道も無く、ちょんまげを結った侍が、大小を腰に差して歩いていたとは。
しかもそんな時代の人と将棋を指しても、私達が勝てるとは限りません。昔の人でも強い人は強いし、今の人でも弱い人は弱い。当然と言えば当然ですが、過去に遡って何万という数のプロの棋譜を瞬時に検索でき、インターネットで世界中の人と何時でも対局できる私達が、パンという食べ物さえ知らない人に、将棋では平気で負けてしまうというのはおかしな、ちょっと情けない話です。
150年前の日本は国として大きく揺れ動いていたのでしょう。
さてそれで、当時の人達より、私達は賢くなっているのでしょうか。
万延元年にフィラデルフィアに来た馬次郎と将棋を指して勝てるという自信が全く無い私は、ニューヨークに帰る車の中で、マグネット盤でアレックス相手に尚も将棋を指しながら考えました。将棋において大事なのはきっと、知識よりも、知恵です。
現代人は昔の人より知恵を身につけていると言えるのでしょうか。膨大な量の知識と情報を取捨選択できるだけの知恵を。過去に学び、現在を見据え、未来を見晴らすことができるような知恵を。巨額の費用が懸かる造船所建設の是非を問われた小栗が、倒れ行く幕府を売家になぞらえ、どうせなら「土蔵付き売家の名誉を残すべき」と笑って答えたという、そのような知恵を。
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