2006年 東日本都市対抗戦長野県予選

MSG総統・著

ネタが切れてきたので辞めようと思っていた「名勝負集」ですが、どうしても語らずにはいられないネタが出てきましたので、今回はそれに触れてみたいと思います。

話は、このカキコからほぼ1年前の「東日本都市対抗戦長野県予選」に遡る。この都市対抗戦というのは一昨年新設された、わりかし新しい大会である。名前から察するとおり、この大会の形式は「市町村対抗」である。

7人1組の団体戦方式であり、出場資格を得る為には同じ地区の選手を最低でも4人揃えなければならないのである。地元棋士の絆を固めると同時に他の市町村との友好を深める為の企画であり、私なりになかなかナイスな企画だと思っている。

更にこの大会の出場資格には、もう一つの特徴がある。それは年齢等の相応して出場枠が決められている事である。成人2名(大学生も成人扱いになる)60歳以上、高校生、女性が各1名ずつ、そして小中学生が2名(小学生は必ず1名出場させる)というのが絶対条件である。地元選手を用意する事を含めてメンバー集めには本当に苦労する大会である。多くの理想を成し遂げると言う事は、その分大変な労力を要すると言う事を改めて痛感した次第であった。

第1回目は御代田町チーム以外に参加希望チームが無く、予選ナシで御代田町チームが県代表になったのであったが、第2回大会では松本道場支部も参戦に意欲を燃やし、次いで塩尻支部も、ある事をキッカケに大会参加に腰を上げたのである。

そのキッカケについては、その2で述べる。
前年御代田町チームを送り出した東信地区であるが、この年は佐久市のメンバーでチーム構成する事となった。それが「チーム佐久」である。だがここで、チーム佐久があてにしていた中学生選手が中信地区のチームでの出場を希望する。

この中学生選手は佐久長聖中学に在学しているのだが、実は松本市に実家を持つ塩尻支部会員であった。長い間塩尻支部で可愛がられながら腕を磨き、小学6年生時には公文杯と倉敷戦共に制して小学生2冠王になるほどの強豪だった。その腕を買われて前年の都市対抗戦でも御代田町チームのメンバーにスカウトされ、東日本大会に出場している。

だが今回は塩尻支部の仲間達と一緒に戦いたいという一心からチーム佐久のオファーを苦汁の決断で蹴ってしまった。未だ塩尻支部が都市対抗戦への関心が薄いと見るとMSG掲示板を用いて参加を呼びかけたのである。当然ながら塩尻支部もこれに呼応、早速チーム作りに動き出す事になった。

年齢・性別の条件を満たしながら地元選手を揃えるのは、なかなかに難しい。特に長野県の場合は女性の愛棋家が少ないと来ている。そんな中でも東信地区、特に佐久市は女性アマの強豪棋士を、数多く誕生させている。

これは野沢北を始めとして、女子の将棋部員を多数入部させ実力者を育て上げたのが大きな要因である。これはやがて周辺地区の高校にまで一から育て上げた学校の先生方と、それを支援した地元支部の熱意には脱帽すると同時に感服してしまう。こう言う事には、いくら敬意を表しても、やり過ぎという事はないのである。

そんな中、東信勢に待ったを掛けようと躍起になっていたのが中信勢であった。松本道場支部は、出場を決意するやいち早く選手の獲得に乗り出す。遅れて塩尻支部も、その2で述べた通り、会員である中学生の熱意に呼応してチーム作りに勤しんだ。

松本道場支部は文字通り松本市内にあり、創立30年の勤続ぶりが評価されて、この大会から数ヵ月後に日本将棋連盟から感謝状を贈呈される程の老舗道場であるが、支部長を始めとして安曇野市出身の強豪が多い。その為か高校生以上の年長者を全て安曇野市民で固め、小中学生は塩尻市の中学生と波田町の小学生を抜擢した。松本道場支部からの参加チームは、この1チームのみであったが、それは優勝を勝ち取る為に実力者を選りすぐったが故であった。

一方の塩尻支部だが、メンバー編成となると当然(?)私・丸山佳洋の出番である。私は主力会員を総動員しようと画策した為、複数チームの参加を目標とした。その結果塩尻支部会員だけでも15名の方々が参加してくれた。塩尻支部と繋がりの深い大町高校からの援軍を得て、3チーム出場のメドが立ったのであった。参加者の皆様には何度でも感謝の意を表明したい(因みに今年は10名参加。その分南信勢の参加が4名あった。これは昨年より2倍増である)

ただ両支部のネックとなったのは、やはり女性選手の確保であった。私の本音としては伊那北高校から援軍をお願いしたかったのだが、かつて何度も全国制覇を達成した超強豪校も、部員数が減少した為に現役部員の出場を断念せざるを得ない状況になった。しかし伊那北OBの女子大生が何と名古屋から援軍に駆けつけてくれると聞いて本当に有り難かった。

残りの2名は結局野沢北高校から借り受ける事となった。実を言うと私が複数チームの参加を目論んだのは塩尻支部の層の厚さを見せ付けるだけでは無かったのだ。女性選手は伊那北か野沢北もしくは野沢南の女子部員からと思っていたのだが1チームだけだと選手も1人だけとなってしまうので、その選手が心細くなって参加に消極的になる。逆にチームを複数作ると友人と一緒なので例え遠くても喜んで出場してくれると踏んだのであり、またそれくらいの心配りをするのが誠意だと判断した為でもあった。

結局塩尻支部の複数チーム構想は3チーム登場させる事によって成就し、松本道場支部も長野支部のベテラン女流アマを獲得する事で難題を解決させる。松本将棋道場開催という地の利も手伝って中信地区からは4チーム参加する事と相成った。

その4ではチーム佐久を私がどう見ていたのかを述べたいと思います。
チーム佐久のメンバー7名は下記の通りである(敬称略)

シニア(大将)田中良夫
成人:土屋稔、羽毛田貴
女性:高見沢聖子
高校生:大井幸太郎
中学生:柳沢直也
小学生:小山源樹

個々の選手の印象であるが、田中先生は連合会会長と軽井沢支部長を兼任して長野県を背負って立つ大変なお方であらせられるという印象が強い。その為忙しく各地区を回る忙しい日々を過ごしているようだ(当然県外にも出張している。私との初対決の場も下諏訪町であった)

成人の2名は、いずれも高校教師で岩村田、野沢北の顧問である。今日の東信地区の学生棋界の御発展は、この御両人の尽力による所が大きい。今回のチーム佐久のメンバー構成でも、特に学生棋士を見てこの御二方の力の大きさを感じるのである。

その代表例が高見沢聖子、大井幸太郎の両君であろう。当時は共に高校3年生。高見沢さんは野沢北女子のエースで当時県最強の女子高生と言っても良い強豪であった。大井君は岩村田の主将であり高校選手権では2年生の頃からチームの主力として活躍して岩村田の2年連続準優勝の立役者となった。但し彼自身は2年連続決勝敗退の責任を感じる思いの方が強かった筈だ。今回の出場理由は、土屋先生の要請であると同時に、岩村田を代表してその悔しさを晴らさんとする彼自身の強い意思が働いていた筈だ。

この2人、つまり高見沢さんは羽毛田先生の、そして大井君は土屋先生の愛弟子である。更に前項でも述べた通り、中信地区のチームも女性選手の獲得については、この両先生に大変お世話になった。長野県における都市対抗戦の隆盛は、この両先生の、そして東信地区の方々の熱意によってもたらされていると私が強く言いたいのは、これらの事々も持っての事である。
中学生選手の柳沢君は県大会で頻繁に見る顔であった。入賞こそ果していないものの真面目に楽しく将棋を指しているとの印象を受けた。本格的に団体戦を戦う事も、また県代表獲得のプレッシャーを今まで以上に感じるのも今回が初めての体験かと私は思っていたので、どんな戦いぶりを見せるのか注目していた。

小山君は当時小学4年生であったが、やはり来たか!という気持ちであった。私が彼の名を知ったのは彼が2年生の時に公文杯で東信代表となった時であった。2年生で代表になるとは、一体何者なのだろうかと思った。この時は、それだけで終わった。

彼に興味を抱くキッカケとなったのはテツ母様の掲示板を見つけて以来、更に東急将棋祭りで初めて顔を合わせた時であった(といってもロクに話をしたわけでもないが)小学生低学年とは思えない読みの集中力と正確ぶりを見て、これは只者ではないなと思うようになったのだ。

そして決定的だったのは、この年の公文杯であった。人の話を正座で聞く態度、そして常に秒読みとなるほどに持ち時間を惜しげもなく使い、不利な将棋でも全く折れる事なく手をひねり出す集中力と忍耐力。色々な小学生強豪を見てきたが、2,3年生の内から、こうまで洗練された将棋を披露する長野県の小学生棋士を見たのは初めてであった。おおよそ天才とは言いがたいが、努力と忍耐を人一倍合わせ持った秀才肌。それが私の小山君に対する印象である。なるほど英春先生や坂口先生に可愛がられるのも納得が行く。

小山君は、この大会では予選敗退の憂き目にあったものの倉敷戦では私が本命と目した選手を苦しめた上に結果の方も3位入賞という見事な成績を残す。更に帰りに松本道場に出向き練習対局ながら、支部対抗戦時のエースを破りギャラリーを驚かせた。そして今回また小学生強豪との連戦が繰り広げられる大会に敢然と挑むのであった。

その6ではチーム佐久の主力となる軽井沢支部の団体戦の、特に支部対抗戦での中信勢との戦いを中信に語りたいと思います。
その5にて

>その6ではチーム佐久の主力となる軽井沢支部の団体戦の、特に支部対抗戦での中信勢との戦いを中信に語りたいと思います。

と書きましたが、誠に勝手ながら今回は見送りに致します。そして早速、大会の様子を振り返りたいと思います。

5チーム35名が集った松本道場は、本当に狭く感じた。主催者も同じ思いだったようで翌年からは松本市勤労者福祉センターにて開催される事となった。

さて大会であるが5チームによる総当りリーグ戦で行なわれた。チーム佐久の初戦の相手は内川新一先生を大将とする安曇野市チームであった。名前こそ安曇野であるが、メンバーの過半数を松本道場支部会員で占める強力チームである。

予想通り接戦となり、3-3のタイスコアで小学生対決に命運が委ねられる事になった。相手は当時松本道場最強の小学生棋士と目された強敵であり、また初対決と言う事で注目されたが、小山君が猛攻を凌ぎ切って貴重な白星をもぎ取った。この結果が最後の最後に佐久と安曇野の明暗を、大きく分ける事になるのだが・・・

その後のチーム佐久は、塩尻市チームに勝ち、松本Aに負けという事で2勝1敗で最終戦を迎えることになる。この時は佐久、松本A、安曇野の3チームが優勝圏内に残っていたが、順位と最終戦のカードは次の通りである。

1位:松本市A 3勝0敗 勝ち点15
2位:安曇野市 2勝1敗 勝ち点14
3位:佐 久 市 2勝1敗 勝ち点12

最終戦のカード 安曇野VS松本A 佐久VS松本B

この星取表を見れば、誰もが松本Aと安曇野の戦いが決戦で、チーム佐久は蚊帳の外と感じるであろう。3チームに可能性が有りとは言え、一番苦しい立場に居たのはチーム佐久であった。勝ち点で3位に甘んじている上に地力優勝の可能性が無いからだ。松本Aが全勝であるので安曇野に勝ってもらうしかなく、しかも安曇野の勝ち数よりも2つ上回って、ようやく追い付くという状況であった。

例えば安曇野が4-3で勝った場合でも、佐久は6-1で勝たなければ追いつかないのだから厳しい。もしこれが実現しても3チームが同点である。直接対決にしても安曇野に勝ち、松本Aに負けとなっているので、安曇野が松本Aに勝った時点で3すくみである。ジャンケンの関係とも、ヘビとカエルとナメクジの睨めっことも言える状態である。

佐久にとって唯一の望みは、直接対決や勝ち星で決まらない場合は大将の、つまりシニアの選手の勝ち星で決めるというルールがある事であった。この時佐久の大将である田中良夫先生は全勝をキープしており、このまま全勝を守った上で3すくみに持ち込めば、一転してチーム佐久が有利になるのである。

僅かな希望に望みを託してチーム佐久は最終戦に全力を注ぐのであった。そして奇跡の結末を迎える事になった。

大会も大詰めを迎え、3チームによる優勝争いが緊張の度合を高めていく。そんな中、チーム佐久は低調気味の松本Bから着々と白星を蓄え、互角のチーム力と思われた首位松本Aと2位安曇野は、予想通り星の奪い合いを繰り広げていた。

まずチーム佐久であるが、田中先生や小山君が全勝を達成するなど、大いに気を吐いて6-1で、松本Bを退けた。後は松本Aと安曇野の勝敗とスコアが注目されたが、結局勝利を納めたのは安曇野で、スコアは4-3であった。

全日程を終了して優勝圏内に残っていた3チームの成績は次の通りであった。
松本市A 3勝1敗 勝ち点18
安曇野市 3勝1敗 勝ち点18
佐 久 市 3勝1敗 勝ち点18

3チームが全く五分の成績となったので大将(60歳以上のシニアの選手)の勝ち星によって決めるというルールが適用され、田中先生の全勝が決め手となってチーム佐久が奇跡とも言える大逆転優勝を成し遂げたのであった。

その8に続く
殆ど最後の松本Aと安曇野の戦いの勝者が優勝すると思われた中、チーム佐久の猛追撃は執念による産物であった。他の2チームと比べて、この執念とチームワークが見事に一体化しての見事な逆転優勝であった。しかもラストスパートの勢いは凄まじく、正に「メイクドラマ」と呼ぶに相応しい大逆転劇といえるであろう。

ところで私がチーム佐久の頑張りを称えるのは、ただ派手な大逆転優勝を飾っただけではない。

私の知る限りチーム佐久のメンバー構成は佐久から5名で、後の2名は上田、軽井沢から1名ずつだったと思うが、このとおり全員が東信地区出身の選手である。地元及び隣町の選手のみで選手を揃えたチームは5チーム中、このチーム佐久のみである。しかも他地区から強い選手を助っ人に招いたわけでない。地元色を全面に打ち出してこの大会に臨んでの優勝という事に重要な価値があると感じるからである。

それも松本道場支部や塩尻支部といった強豪支部の会員が主力をなした強力チームと一歩も引かない競争を繰り広げ、ついに「佐久市」を長野県の頂点に押し立てるに至ったのである。

未だ支部の無い佐久市ではあるが多くの先生方の努力によって少しずつ地道に普及に努め、高校棋界に至っては「佐久王国」とも言えるほどにまで隆盛させるなど、その献身ぶりには、ひたすら頭を下げるしかない。今後更に佐久市の将棋界は栄えていくであろうし、またそう願わずにはいられないのである。